第5章 初期ホモ属――脳の増大をもたらした要因
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このホミニンが、ちょうどそのころ出現したとおぼしい原始的な石器を作ったと思われた それでもハビリスのか積が、当時まさに始まろうとしていた大きな変化の先駆けであったのは明らかだ
以前とは大きく異なる新たなホミニンが登場しようとしていた
出現後の数万年で、この新種はアフリカ全土を席巻し、大挙してアフリカを出るとユーラシア大陸に広がった
ホモ・エルガステルを特徴づけるもの
脳の大きさの大幅な増加
骨格の変化によって二足歩行に適応した長い後肢を得て、はじめて現生人類らしく見える体形
より遊動的な生活様式
握斧とその製作者は、約180万年前にアフリカ東部に出現してから100万年以上にわたって目立った変化もなく存続し、約50万年前に近代的道具とそれを作ったヒト(確実に現生人類の系統)が出現した ホミニン進化における、この二番目の時期についてはしばらく前からわかっていた
不幸なことに、北京原人の当時の標本は、第2次世界大戦中にアメリカが保存を試みる最中で行方がわからなくなった
幸運にも紛失前にドイツの解剖学者フランツ・ワイデンライヒが標本すべての詳細な解剖学的詳細を公開し、精巧な石膏レプリカを製作していた 1937年に日本軍が中国を侵略する前に、これらのレプリカの一組がニューヨークにあるアメリカ自然史博物館に送られていた
この種に関する私達の知識は、半世紀以上にわたってこれらの石膏レプリカから得たものに限られていた
やがて、これらのアジアで見つかった標本(続けてヨーロッパで見つかった化石)は、すべてホモ・エレクトスだとされた 後代のアジア産標本に多少脳の大きさの増加が見られるとは言え、両者の間にほとんど差がなかった
さまざまな意味で重大な出来事は、はじめてのアフリカ脱出
これがエルガステルの進化史の最初期に起きたことはわかっている
彼らは約180万年前に出現した直後には黒海の北側に位置するグルジア(ジョージア)に達していた
これらの化石の年代が正しければ、ホモ・エルガステルは最初にアフリカに出現してまもなくユーラシアに侵入し、これを波状に繰り返すことによってユーラシア大陸に、より脳の大きな個体群を生み出したことになる
この時種が存続した期間に、物質文化と脳容量に起きた変化は非常に小さい
頭蓋容量は時を経てもほんのわずかしか増えず、握斧は100万年にわたってほぼ変化がなかった 実際、アジアのホモ・エレクトスは握斧をまったくつくらなかった。
握斧はモヴィウス線として知られるようになった境界線の西側と南側では大量に発見されている 竹材料で道具を作ったため残らなかった可能性はある
したがって、説明すべき主な事柄は、この分類群が約180万年雨にアフリカに出現したときに脳の大きさがはじめて急激に増えた理由、そしてアジアのエレクトスの脳容量がわずかながら増加した理由になる
脳の大きさが増えるのは、食べる量を増やして 脳に余分なエネルギーを与えた場合のみ
アウストラロピテクスが必要とする時間がすでに限界に達していて余裕がなかったことを考えると、この状況は新種の時間収支にとってかなりのストレスになったと思われる ホビット(ホモ・フロレシエンシス)や、アウストラロピテクスとエルガステルのあいだ、あるいは後期エレクトスと旧人のあいだに短期間のみ存続した種については述べないつもりだ ホビットは興味深くはあるけれども、それは結局矮小化したエレクトスで、発見時にはメディアが大騒ぎしたものだが、人類の進化史をほんのわずかでも変えてはいない
大きな脳と体の代償
図1-3はさまざまな種の脳容量が時を経てどう変化したか
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エルガステル/エレクトスの時系列には緩慢だが相当な増加が認められるが、ここで鍵を握るのは、脳容量が現生チンパンジーよりわずかに大きいアウストラロピテクスの約480cm³から、アフリカ東部で見つかった最初期のホモ・エルガステル標本5体の平均値約760cm³まで増加したこと これはアウストラロピテクスに対して、280cm³、58.2%の増加にあたる
また、後期ホモ・エレクトスでは、エルガステルに対してわずかとはいえ約170cm³(22%)増加して、930cm³になった
脳がこれほど大きくなると、維持に相当なエネルギー、つまり余分な食物探しの時間を要したはず
1250cm³の容量をもつ成人の脳は、体の総エネルギー代謝の約20%を消費するので、280cm³の増加は脳のエネルギーコストの$ 280/1250 = 22.4%になる
これは全身のエネルギーコストの20%にあたり、脳が22.4%余計にエネルギーを食うなら、総エネルギー摂取量を$ 22.4 \times 0.2 = 4.5%増やさなければならない
エネルギー摂取量が食物探し時間と正比例すると仮定すると、エルガステルの脳が必要とする余分なエネルギーは、アウストラロピテクスのエネルギー摂取量を平均で4.5ポイント上回る
エレクトスの脳が大きくなった分として摂食時間をさらに約2.7ポイント増やさねばならないので、アウストラロピテクスに比べて合わせて7ポイントの増加となる
キャロライン・ベトリッジのモデルは、アウストラロピテクスが日中の時間のうち44%を摂食に当てて総エネルギー需要をまかなったことを示唆している エネルギー摂取量がほぼ摂食時間に対応すると仮定すると、余分の脳容量が意味するのは、エルガステルの日中の$ 44 + 4.5 = 49%を食べることに費やし、エレクトスはこの数字をさらに51%に上げねばならなくなることだ
およそ5ポイントほどの増加なら大きすぎるコストとは言えず、他の活動を少し調節すれば対処できただろう
しかし、エレクトスにとって、わずかとはいえ増えた摂食需要に応えるのはエルガステルの場合より難しかったと思われる
それでも、全体として見れば、初期における脳の大きさの増加は、初期ホモ属にさほど大きなコストをかけなかったようだ というより、大半の人類進化の研究者が考えていたよりはるかに少ないコストですんだらしい
とはいえ、アウストラロピテクスが時間収支から7ポイントの超過分を絞り出さねばならなかったように、エルガステルとエレクトスも脳を大きくするにはそれぞれ約5ポイントと7ポイント分を、どこかで時間のやりくりをしなければならなかった
しかし、ホモ属の出現とともに起きた解剖学的変化は、脳の大きさに限られてはいなかった
もう一つの大きな変化は、体の大きさと形状の両方
ホモ・エルガステルは背が高く、歩くために後肢が長くなり、体重も増えた
あらゆる種の平均値を取ると、アウストラロピテクスの雄と雌はそれぞれ55kgと30kgあり、ホモ・エルガステル/エレクトスの場合はそれぞれ68kgと51kg
初期ホモ属は標準的なアウストラロピテクスより平均で40%体が大きく、この余分な体質量分もさらに付加的なエネルギーを必要としただろう
この2つの要素(脳と体)を考え合わせると、エルガステルは体と脳のエネルギー需要に応えるために、もてる時間の62.5%を食べることに振り分けねばならない
これはアウストラロピテクスの摂食時間に対して21.5ポイントの増加になる
摂食時間は、アウストラロピテクスの代謝体重に対するホモ属のそれの比率によって調整されている 代謝体重(体質量の$ 0.75乗、つまり$ M^{0.75}で計算できる)は、身体組織の相対エネルギー消費の指標となる
計算には、男女の平均体質量を用いた
この数字はエレクトスでもほとんど変わらない
エレクトスの脳はエルガステルより大きいものの、体がいくらか小さい
エレクトスの体が小さいのは、よりストレスがかかり、寒冷で、四季が移り変わるユーラシアの高緯度の環境に適応した結果だろう
たいていの研究者は、ホモ属が直面した問題は大きな脳をもったことによる余分なコストだと考えた
しかし、ここで見た計算によれば、実際のコストは体重の増加にあったようだ
このコストが余分な総エネルギー(時間)需要の四分の三以上を占める
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図5-2 おもなホミニン種の摂食時間の中央値
アウストラロピテクスの平均時間収支(基準線44%)を、アウストラロピテクスの代謝体質量に対するその種の代謝体質量の比率の関数としてスケーリングして各標本について計算した
代謝痛い質量は、エネルギー的によりコストの掛かる脳(総エネルギーの20%)と体質量(総エネルギーの80%)間で異なる配分をしている
このグラフは主要な各ホミニン種が一日のうち摂食(食物探しではない)にあてる時間をプロットしたもので、脳と体の増大によるコストのみを考慮している
ホモ・ハビリスをはじめとするアウストラロピテクス類の標本は、いずれもほぼこの水平線近くにまとまって分布している しかし、ホモ・エルガステルの出現で目のくらむような増加が始まる
初期ホモ属と後期ホモ属で62%、ネアンデルタール人で78%、解剖学的現生人類で72%(ネアンデルタール人に比べてわずかに体が小さくなっている)増加する エルガステルが直面した問題はこれだけではなかった
大きくなった脳が意味する大規模な共同体を維持するため、社交に費やす時間をさらに増やさねばならなかったのだ
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図5-3A おもなホミニン種の社交(毛づくろい)時間の中央値 図3-3の共同体規模を、図2-1の回帰式に代入して内挿することで各標本について計算した
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図5-3B 主なホミニン種の総時間収支の中央値
摂食時間(図5-2)と社交時間(図5-3A)を加え、ベトリッジ(2010)アウストラロピテクス・モデルの固定強制的休息時間(32.5%)と固定移動時間(16.2%)を用いて計算した
これらのグラフから、ホモ属の需要はどの種も維持可能な時間収支よりはるかに上に押しやられるのがわかる(30%ほど時間が足りない) 要するにエルガステル個体群がどうにかやりくりしなければならない正味時間は、30ポイントという途方も無い数字で、その3分の2が余分な摂食時間になる
ホモ・エレクトスでは34ポイント超過するが、その主な理由な大きくなった脳が集団規模のさらなる増大につながるからだ
結論として、これらの種は、どれもアウストラロピテクスなら存続できなかった
彼らはどうにかして時間収支の隘路をすり抜ける方法を見つけたのだ
肉食や料理が問題を解決した?
休息時間を切り詰めるのは論外だ
二足歩行と無毛という利点を得た代償に、アウストラロピテクスは疲労しきっているはずだからだ しかし、エルガステルが休息時間を減らす方法が一つある
ただし、そのときに気候が寒冷化に傾いていればという条件付き
約180万年前にホモ・エルガステルがアフリカに出現したのが、世界の平均気温がほぼ一貫して下がった大規模な気候変動と時を同じくしているのは単なる偶然ではないのかもしれない
この気候変動が起きた時期には、多数の種が絶滅刷る一方で、新しい霊長類系統や哺乳類系統が多数出現した
このとき熱帯アフリカの平均気温が約2℃下がり、サルと類人猿の時間収支モデルを用いる休息方程式によれば、エルガステルの休息需要が約2.5ポイント減った まあこれは、さしたる節約ではないかもしれないが、それでも一歩前進ではある
また、移動時間が別の解決策になるかもしれない
初期のホモ属はアウストラロピテクスよりかなり背が高く、歩幅が増えて移動時間が短くなったはず
後肢の長さは初期ホモ属では88cmで、アウストラロピテクスでは62cmだったので、ホモ属に41%の利がある
これで移動時間を11.5%に減らして約5ポイント節約できる
しかし、初期ホモ属について知られている全てから考えると、彼らは先行種より遊動性が格段に高かったので、サバンナにより広く分布していたかもしれない
ということは、この時間の蓄えは移動時間を減らすというより、同じ時間コストで日中により長く移動したということなのかもしれない
だが、ひとまず、これをわずかながら時間の節約と考え、正味7.5ポイントの節約ができたとしよう
初期ホモ属の時間収支の主な要素は摂食なので(どちらの分類群でも全体のおよそ62%)、摂食時間を切り詰める方が効果は大きいと思われる
ここまで考慮してこなかったが、何らかのエネルギー再割当てがあり、身体各部の維持コストが再分配された可能性はある
彼らは、腸と脳はエネルギー消費に関して同程度のコストが掛かると考えた 腸には神経が稠密に張り巡らされているし、脳はニューロンがいつでも発火できるように準備を整えている
両者によれば、人類進化のある時点で、ホミニンはエネルギー割当の一部を高コストで不経済なある組織(腸)から別の組織(脳)に再分配することで、全体として余分なコストを出さずに脳を大きくした
彼らは食物の質を上げ、小さくなった腸による栄養素の吸収率を改善することでこれを実現したというのだ
不経済組織仮説に関しては2つの批判がある
これはややおかしな結論だと言わねばならない
不経済組織仮説は人類進化に特有の問題(人類はどのようにして深刻なエネルギー制限条件を取り除いたのか)に対して与えられた説明だからである
肝心なのはそれが天井であることで、制限条件は脳の大きさが霊長類のそれを上回ってはじめて出現する
仮説が鳥類や南米の霊長類に当てはまらないという指摘は興味深くも無ければ関連性もない
とはいえ、グッピーを使った優れた実験では、大きな脳の個体を人工的に作ると(ちなみに、認知力が少なくとも雌で改善した)、この魚はそれを腸の大きさと腹子の大きさ(よく知られるところの繁殖のトレードオフ)(Kortschal et al., 2013)を減じることで補った 2番目は、大きな脳を可能にするために生活史過程の速度を緩めねばならないとすれば、ある個体群を維持するのが不可能になる繁殖率というものがあるはずで、これが大型類人猿の脳の灰色の天井を作ってしまうため、類人猿は自然な死亡率に追いつくほど速く繁殖できず、自ら絶滅を招くこと無くこの天井を超えて脳を大きくするのは不可能だという批判(Isler & van Schaik, 2012) ホミニンは共同繁殖によってこの天井を取り除いたというのが彼らの主張だった
共同繁殖すれば妊娠期間を大幅に短縮することができる
残念ながら、この主張を裏付けるために示されたデータは、実際には出生率が人工維持レベルを下回ることを示してはいない
脳の大きさと繁殖率との関係は直線ではなく、漸近線を描く(補充率を下回るのではなく、そのすぐ上にとどまる)
自然な妊娠間隔を予測するのに現在のヒトの妊娠期間ではなく回帰直線を用いても、ヒトはやはり限界の上にくる
この誤りが生じたのは、両対数グラフ上の線形な関係を生データの線形な関係と混同したためだ
私は彼らと同じ仮定はせず、脳質量の相対的な増大をのぞけば、体質量はアウストラロピテクスと同じ割合で主要器官に分配されていたと仮定した
しかし、余分な脳のコストが実際には腸のコストの減少で賄われていたのだとしたら?
これでどれほどの摂食時間が節約できるだろう?
脳の大きさを考慮せずに(脳の増大分が腸の減少分によって過不足無く相殺されたと仮定し、体の大きさの増加についてのみ調整して)ホミニンの摂食時間需要を計算し直すと、初期ホモ属で約5ポイントのささやかな節約、後期ホミニンでそこそこ節約が得られる
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図5−4 摂食時間の不経済組織効果によって総時間収支で得られる節約
不経済組織効果について調整された数値は、大きくなった脳の付加的なエネルギーコストが、腸の質量をその分減らすことで直接相殺されるので、体質量のみが摂食時間に影響することを前提としている
大方の研究者が期待したほどたいそうな節約ではないかもしれないが、5ポイントの節約によってエルガステルとエレクト巣の時間収支超過分はそれぞれ30ポイントと34ポイントから25ポイントと29ポイントに減る
このうちすでに気候の寒冷化と後肢の長さの増加によって7.5ポイントは減らすのに成功している
残るはエルガステルで17.5ポイント、エレクトスで21.5ポイントということになる
時間を節約するには他にどんな方法があっただろう?
肉はたいていの植物に比べて栄養豊富で、脳の発達に欠かせないビタミンB群に属するナイアシン(B3)などの重要な微量栄養素に富んでもいる 元々の不経済組織仮説では、腸の縮小はより消化のよい食べ物を食べることによって可能になったもので、この消化のよい食べ物は肉とされていた
しかし、肉を食べるのは当初考えられていたほど簡単な解決策ではなかった
霊長類は生肉をあまり効率よく消化できない
人類進化においてエネルギー不足を解消したのは、火を使って肉を料理し、消化を助けたことかもしれないという
肉に火を通すと栄養素の吸収率が約50%増える
ランガムは料理が発明された時期について、およそ180万年前のホモ・エルガステル出現時を挙げる 彼によれば、このことは三項目の重要な考古学的観察によって裏づけられる
ホモ属の出現と歯・下顎の縮小(粗雑な植物を食べなくてもよくなった)が時期的に一致する https://gyazo.com/c64a492e609239fc3f715fc9b685c5a2
図5-5 初期ホミニンと現生人類における平均臼歯面積
過去には古人類学者は次のように論じたものだった
アウストラロピテクスが類人猿のような大きな犬歯を失い、初期ホモ属が大きな臼歯を失ったのは、これらの生物種が選んだ食物を食べるのにこれらの歯が必要でなくなったか、これらの歯が果たしていた摂食機能を肩代わりする道具を使えるようになったからだという しかし、進化の観点から見ると、形質は不必要になったからと言って失われるものではない 形質が失われるのは、それを排除する明確な淘汰圧がある場合か、正の淘汰圧にさらされている別の形質の機械的な要件と相容れない場合
多くの人の推測とは裏腹に、大きな犬歯は霊長類では(肉食動物とちがって)摂食に使われるわけではなく、純粋にオス同士の争いに使われる武器 大きな犬歯が失われたことは、雄の間で直接的な競争がなくなったことを暗示していて、大きな食物探し集団で一緒にやっていくにはそうする必要があったのかもしれない
あるいは、大きな犬歯はものを噛むときに顎の自由な動きを阻み、このことがアウストラロピテクスのより圧迫された食物探しの条件下では不利だった可能性がある
初期ホモ属の臼歯の並びが小さくなったのは、食性の変化もさることながら、声による意思疎通(たとえば、笑い)を可能にする発声空間を制御しやすくするために、顎を小さくする必要に迫られたためとも考えられる 食性が原因なら、必要性がなくなったことを示すだけでは十分ではなく、大きな臼歯がもつ重要な機械的利点または不利な点を示さねばならない
食物の処理という意味では、その利点あるいは不利な点がなんであったかは明らかではない
火を使用した最初の証拠がある
脳の大きさが急増した
大きく肉食に傾いた食性変化を説明するため、エルガステルとエレクトスが槍で狩りをしたという主張が何度もなされてきた
上手投げすると、私達の肩と腰は優秀なバネになってエネルギーを蓄え、これを腕に伝えて投げ槍に大きな推進力を与える
問題は、この能力を得るための解剖学的要素の数々がいつ私達に備わったか
実際には、これらの要素はバラバラに実現した
20万年前の現生人類出現よりだいぶ前には出揃っていなかったかもしれない
しかし、エレクトスの肩帯が現生人類の能力範囲の下端に入るという主張は、彼らの投げる能力が現生人類に匹敵するという主張とは全く次元が違う 現生人類は、各人が人類全体の能力範囲のどのあたりに位置するかで投擲能力は大きく違ってくる
つまり、ホモ属が日常的に槍を使って狩りをしたという主張は推測の域を出ない
一方でエレクトスが石(あるいは原始的な木製の槍)を投げてときどき獲物を狩ったかもしれないという主張はまた別の話
ナリオコトメ・ボーイが現れるころには、ホミニンが素朴なオルドワン石器をつくって既に100万年近く経っていた それを捕食者や獲物に投げたら、たまたま命中したことがあったにしても不思議はない
だが、投げ槍は石器とは違う
体が槍を投げるための解剖学的特徴を獲得したにしても、それは木片からよく飛ぶ槍をつくる知的能力と正確な運動制御能力を得ることとはまったく別種の問題だ
また鋭い穂先のない槍が、突き刺すのではなく投げる狩猟武器として効果があったか否かも疑問だ
さらなる確証が得られない限り、これほど初期に武器による狩りが日常的に行われていたという主張は斥けていいだろう
ただし、ときどき槍で獲物を捕らえることもあったことは認めてよかろうと思う
狩りの問題は別にして、肉などの食物から栄養素が吸収される効率は料理によって確かに上がったはずだ 加熱すると、組織の細胞膜が壊れて栄養素の消化が促されるし、植物性の食物の場合には、新芽などに含まれるアルカロイドその他の毒素が消えて草食動物は毒から守られる とはいえ、料理によってどんな食物でも消化がよくなるわけでもない
料理の効果が本当に期待できるのは生肉と地中貯蔵器官のみだ
根などに含まれる滋養に富むが消化の悪いデンプンが加熱によって柔らかくなる table: 現存する狩猟採集民の食性(Cordain et al., 2000)
食料源(%) 全世界 熱帯 温帯
植物性(塊茎、根、球根) 35(8.3) 40 40
肉 36 34 40
魚 29 26 20
では、料理が初期ホモ属に与えた恩恵について見てみる
現生人類のパターンを基準にすると、食物の45%で消化効率の50%増加が期待できるので、食物全般の質は22.5%上がる
これが意味するのは、摂食時間の100ポイントが栄養素の摂取量に換算して122.5ポイントになるということだ
食物の55%は標準的な割合で栄養素を与え、残り(45%)は50%増しの栄養素を与えるので、全体の改善度は$ 55\% + 45\% \times 1.5 = 122.5\%になる
エルガステルとエレクトスは大きなった体と脳を維持するために、それぞれ1日の57%と58.5%を食べることに費やさねばならないので、料理によって摂食時間の需要は
エルガステルで$ 57 \times (100/122.5) = 46.5%
エレクトスで$ 58.5 \times (100/122.5) = 47.8%
仮に彼らが食物を残らず調理して食べたとすると、時間収支にわずかながら影響を与えて総不足分が減るものの、それでもそれぞれ5.5ポイントと13.5ポイントの不足分が残る
もちろん、食物に占める肉屋地中貯蔵器官の割合を増やして残りの不足分を帳消しにすることもできる
これは肉や地中貯蔵器官の量をエルガステルで食物全体の50~67.5%に、エレクトスで130~105%に上げることを意味する
この時期における肉食に関わる考古学的記録が限られていることから、どちらの数字も高く感じられるが、エレクトスの数字は明らかに不可能だ
食物全体を肉に頼らねばならず、これは現生人類でもしていない
ランガムが挙げた2つ目の証拠は、臼歯が初期ホモ属で縮小したことだった
ホモ・エルガステルの臼歯が頑丈型のアウストラロピテクスよりずいぶん小さいのは間違いないが、華奢型のアウストラロピテクスに比べるとさほど小さいわけではない(図5-5)
ホモ属の歯が小さいという印象があるのは、関連データがかならず体質量に対する割合で示されている事が大きいのではないだろうか?
残念なことに、考古学の文献ではなんでも体質量を基準として示すことが広く行われているが、そうする十分な生物学的根拠がない限り、これは見当違いと言わねばならない
臼歯の件もやはりそうで、咬合面の大きさ、つまり咀嚼効率を決めるのは臼歯の相対的な大きさではなく絶対的な大きさだ
したがって、臼歯の縮小は考えられていたほど大きくはない
3つ目の証拠はホモ属出現と脳の大きさの増加が時を同じくしていたことだった
けれども、実際にはホミニン史のこの時点における脳の大きさの増加はその後の増加に比べるとずいぶん小さい
さらに重要なのは、初期ホモ属のささやかな脳増大を料理で説明したとすると、その後に旧人や解剖学的現生人類の脳がはるかに大きくなったことをどのように説明するのか?
したがって、料理がどのような効果をもっていたにしても、それが完全な解決策ではなかったのはまず間違いない
実はホモ属の出現時に起きたわずかな脳増大が、肉食や料理の手を借りずには起きえなかったか否かはわからない
つまるところ、生肉はまったく消化できないわけではない
ただ栄養素の吸収が加熱した肉より少ないというだけのこと
だから、初期ホモ属が加熱していない肉を少々多く食べるようにならなかった理由はない
問題は、肉を食べたときにその栄養素の三分の一を失うことが不都合だったか否かにある
不経済組織効果を帳消しにするために肉を食べて栄養素の摂取量をさらに5ポイント増やしても、総摂食時間の節約分はチンパンジーの2ポイント未満から初期ホモ属の5~7%・ポイントに増えるだけだ
料理によってそれが3.5~4.5ポイントという数字にヘルが、この程度の節約ではわざわざ火を使うほど重要であったか否かは疑問が残る
初期ホモ属が時間収支の問題を解消するために、肉食に大いに依存したわけではないのは私には明らかに思える
ところが、実際にはランガムが正しく、加熱した肉が彼らの解決策だったとすれば、火の使用を示す考古学的証拠が豊富にあるはずだ 火の使用は習慣的ではなかった
火は人類がヨーロッパやアジアの高緯度地帯に侵入するには欠かせなかったはずだ 人類は実際にこれらの地域への侵入に成功を収めている
しかし、ここで考慮すべきは、火の発明がホモ・エルガステル/エレクトスが料理に使ったほど早期だったか否かだ
食物の半分だけに火を使ったとしても、火がやや継続的に使われたことを意味するだろうし、それならば炉の証拠が広範囲から集まるはずだ ホミニンによる火の使用を示す確実な証拠が発見された最古の遺跡はケニアのコービ・フォラやソワンジャが知られ、いずれも約160万年前にさかのぼる これはホモ・エルガステル出現後間もない
ところが、それ以降何も発見されておらず、約100万年前になってようやく火を使った証拠が散発的に見つかるようになる
この二度目の発見時期に、アフリカ南部スワルトクランスで焼けた骨が60片ほど見つかった
高温にさらされていることと、切断の痕跡から意図的に料理されたと主張された
ほぼ同時代のアフリカ南部のワンダーワーク遺跡はアシューリアン遺物と関連付けられ、この遺跡で見つかった骨片のほぼ半分が焼却による変色を示すとともに、植物の灰も多数発見されている
その後再び炉の証拠がない時代が長く続いた
中国北部の周口店にある有名な洞窟は75〜20万年前にホモ・エレクトスが暮らしたとされ、この洞窟で炉の存在を示す焼けた堆積物が発見されたという主張がなされたが、その後この堆積物はただの変色した土壌であることがわかった 50万年前からは火を使った証拠が旧世界の三大陸すべてで広範囲から豊富に見つかるようになる
シェーニンゲンでは黒焦げになった木の棒が、クラクトン(イギリスにある同年代の遺跡)からからは明らかに火によって硬化した木の槍が見つかっている 実を言うと、40万年前以降はどの時点でも炉の証拠が見つかる
アフリカでは、ザンビアのカランボ滝(18~30万年前)から黒焦げになった丸太や焼けた火かき棒と棍棒が、アフリカ南部のピナクル・ポイント(4~17万年前)から炉が発見された 40~50万年前にアフリカ、ヨーロッパ、アジアで炉が発見されていないのは、この時期が火の使用における主要な転換期だったためと解釈されてきた
これにより以前の自然の火にたちまち出くわしたら、ホミニンはその機に乗じて火の力を利用したかもしれなかった
火を完全に使いこなすようになったのは約40万年前で、いったんその扱いになれると、どこでも意のままに火を絶やさずにおくことや、火をおこすこともできるようになったようだ
火に関わるこの転換期は、定まった住居(洞窟や小屋も含む)の出現と時を同じくしているらしい
大きな炉は1日に30kg以上の薪を必要とすると思われ、これは時間、エネルギー、協力という意味でたいそう大きな需要になる
誰かがその薪を集めなければならない
これを毎日行うとすれば、既に限界に近い時間収支に大きな負担を強いることになる
さらに、大きな火を絶やさないためには何人かが互いの活動の調整を図らねばならないかもしれない
互いの協力が必要だと認識し、交代しながら火を守るには、言語と認知能力が欠かせないだろう どちらも大きな脳がなければできない
あとの章では、こうした認知能力を可能にするほど大きな脳が、約50万年前の旧人の出現より前にできたわけではないと論じよう 要するに、それよりはるか以前に料理を思わせる証拠はたしかに存在するとは言え、これらの証拠は料理が40万年前までに食事の際の習慣にはなっていないことを示してもいる
もしこれが正しいなら、料理は初期ホモ属の食事に大きな影響を与えるほどの習慣になっておらず、したがって彼らの時間収支危機の主な解決策にはならなかったと結論付けざるをえない
笑いと絆
時間収支について、まだ検討していない側面は社交に費やす時間 互いの絆を深める時間は共同体の規模と正比例するので、初期ホモ属が形成した大規模な共同体では、毛づくろいの時間はアウストラロピテクスに比べてほぼ2倍になっただろう 社交時間の需要を計算する際の前提は、初期ホモ属の集団でもサルや類人猿と同じように社会的な毛づくろいによって絆は強まるということ 霊長類では、毛づくろいはほぼ一対一の行為であって、同時に数頭に対して行うのは物理的に不可能
実際、私達も未だにこの問題を引きずっている
現生人類にとってそれはより親密な場面で肉体的な愛情を確かめあうことと同じで、同時に何人かを相手にできるものではない(少なくとも、だれかが感情を害することなくしては)
けれども、真の問題は、他の活動に時間を取られるために、サルや類人猿が社会的毛づくろいに費やす時間は一日の約20%で限界に達することにある
そして、その限界によって集団サイズの上限はおよそ50人に制限される
初期ホモ属がこの上限を超えて集団の規模を増やしたときには、毛づくろいの時間を増やす、または限られた時間内でより多くの相手とつながる効率のよい方法を見つけなければならなかったはずだ
実際問題として、数頭を相手に毛づくろいする必要に迫られていた
類人猿の笑い(たいてい遊びの場面で生じる)は一連の呼気/吸気の反復だが、ヒトのそれは吸気のない一連の呼気 類人猿は息を吐くごとにかならず息を吸うので、肺が空っぽになることがなく、横隔膜と胸壁筋にかかる圧力は最小限度ですむ これに対して、ヒトは笑うときに急速に息を連続して吐くため、疲れがたまって息継ぎしたくなる
一連の実験で私達が示したように、胸壁筋にかかるこのストレスによってエンドルフィンが産生される
そこで、笑いを手の届かない場所にいる相手に対する毛づくろいに使い、数人の相手に同時にエンドルフィン分泌をうながすことが可能かもしれない
笑いはこの作用の完璧な候補だが、それは笑いが脳内でエンドルフィンを分泌させるからだけでなく、ヒトの行動で笑いほどうつりやすいものも他にあまり例を見ないからだ
コメディのビデオを一人で観ているときより、グループで見ているときのほうが、笑いは最高で30倍も頻繁に起きる
事実、この行動はあまりに本能的なので、たとえ冗談を理解できなくとも、他の誰もが笑っていると笑わないでいることは難しい
笑いが本能的だということは、その起源がきわめて古いことを示唆している
誰かを笑わせるのに言葉がいらないなら、笑いは言語よりずっと前に進化したと考えられる
ここで非常に大切な問題は、毛づくろいより笑いのほうが何人余計に影響を与えたかにある
言い換えれば、自然に集団に笑いが生まれるときの人数は典型的には何人だろう
まず以下を記録
社会集団の規模
明らかに一つの集団とわかる、テーブルの周りに座っている人数
会話が成立している集団の規模
社会集団の中で活発に会話に参加している人、つまり話し手とその人に注意を向けている聞き手の数
笑いが起きたときに同時に活発に笑っている人数
笑いの集団
この特定の調査では、社会集団の平均人数は約7人だったが、会話集団と笑いの集団の場合はこれよりかなり少なかった 私達が以前の調査で発見したように、会話集団には4人という上限がある
もし4人を超える人が会話している場合には、その集団はたちまち2つの別々の集団に分かれる
実に驚異的だったのは、笑いの集団サイズがさらに少なかったことで、上限は3人
これは私達の予想よりはるかに少なく、現在では笑いが言葉を使った冗談によって起こることを考えるなら特筆すべきことだ
笑いの集団にいる3人全員(冗談を飛ばす1人と、それを聞く2人)が笑うと、3人ともにエンドルフィンの作用を経験する
毛づくろいでは、その恩恵を受けるのは毛づくろいしてもらう個体だけ
ところが笑いは互いのつながりを深める過程としては毛づくろいの3倍の効率がある
もしホミニンがこの初期ホモ属の段階で笑いを結束強化のメカニズムに選んだとしたら、大幅な時間短縮につながっただろう
社会的毛づくろいを旧世界霊長類の集団規模の関数として表す私達の方程式によれば、エルガステルは約75人の集団では日中の18.5%の時間を社交に費やし、エレクトスは約95頭の集団では23.5%の時間を費やす
もし笑いが毛づくろいを補い、単独で毛づくろいの三倍の効率をもつとすると、これらの数字はそれぞれの3分の1、すなわち6.2%と7.8%に減る
これでこの二種では12ポイントと15.5ポイントの節約になり、これを気候変動、二足歩行、不経済組織説によって得られる12.5ポイントの節約と合わせると、これら二種の時間収支においてそれぞれ24.5ポイントと28ポイントの節約になる
結論として、料理を除外しても、これら二種の時間収支不足分の30ポイントと34ポイントは残すところあと5, 6ポイントのみになる
https://gyazo.com/c299465d0b95aa305e8067d641e60c29
図5-6 主なホミニン種において総時間収支に笑いが与える影響
基準総時間収支(●)
不経済組織効果について調整済みの総時間収支(○)
笑いが社交時間需要に与える節約効果(□)
これほど少ない数字ならたまたま起きた料理によって説明できるだろう
食物のたった5%を料理するだけで、初期ホモ族は炉の火を常時維持したり、獲物を殺したりすることに時間を割く必要がなく、しかも子孫があいずれ伸ばしていける能力の種をまいたことになる
ホモ・エレクトスの脳の大きさに基づく共同体規模については、当面その推定値をそのまま用いた
冬季に日照時間の少ない高緯度地帯で生活していたため、彼らはより大きな視覚系をもっていたから
エレクトスの個体群も全てヨーロッパやアジアで生活していたネアンデルタール人に匹敵する緯度に分布していたので、強力な視覚、すなわち大きな後頭部(第一次視覚処理を担う脳の後部)への淘汰圧にさらされたはず
証拠は限られているものの、ネアンデルタール人と同じように、エレクトスもいとこののエルガステルに比べて大きな眼窩と大きな後頭葉を持っていたらしい形跡がある
もしそうであるなら、彼らの前頭葉もエルガステルに似ていたかもしれない エレクトスの共同体規模をネアンデルタール人並みに修正すると、初期ホモ属のこれら二種間では差異はないも同然になり、ホモ・エレクトスを襲ったとされるより深刻な時間収支危機は解消される
つまり、エルガステルの時間収支危機を救ったものがなんであれ、それはエレクトスの危機をも救ったのだ
なにが脳の劇的な増大をもたらしたのか
ホモ属出現にともなう脳の増大は大幅で、この飛躍的な増大をもたらしたものはなにか
この説明では、脳の増大は気候が特に不安定で、雨季と乾季が急速に入れ替わるような場合に起きる 気候が不安定になると、ホミニンは困難な食物探しに対処するためにより大きな脳を進化させる
この仮説には、こうした認知能力の変化をより精密な道具の製作と結びつけるバージョンも有る
より一般的にこの仮説を裏付けるのは、冬中ヨーロッパにとどまる鳥類が、冬期には熱帯にわたる種よりかなり大きな脳をもつという時事 脳が大きければ予測不可能な環境にもよりうまく対処できる
ホミニンにもこの仮説があてはまるという主な証拠は、脳の大きさがこの400万年を通じて気候変動と相関を持つという主張 ところが、この相関は個々の標本データを地質年代順にプロットし、それらの標本が異なる種に属することを考慮せずに得られたもの
同じデータを種ごとにプロットすると、相関は消失する
とりわけ、初期ホモ属の時代には消え去ってしまう
脳の大きさの変化とされたものはひとえに種間の差異で、気候変動による変化ではなかったのだ
霊長類一般において生体環境が脳の大きさの進化に影響を与えるという証拠はなく、突如としてホミニンが同じ科の他種と全く異なる進化の道を突き進むというのも奇妙な話なのだ
また、道具の複雑さと脳の大きさの間に相関があるという確たる証拠もない
もちろん道具は時を経てその複雑さをマストは言え、道具の複雑さは脳の大きさと歩を揃えて変化しているわけではない
たいていあとから起きる
したがって、気候変動の仮説は求める答えではなさそうだが、気候変動は変化を早めた重要な一因だったかもしれない
初期ホモ属が出現した時、脳の大きさが劇的に増加したが、これが雨期と重なっていたという証拠がある
当時、アフリカ東部を南北に走る大地溝帯(リフトバレー)は、エチオピア南部のオモバレー地域からケニア中部のバリンゴ湖や南部のさらに大きな湖にいたる巨大で深い一つの湖になることがあった これによってホミニンの個体群は拡散し、それまで足を踏み入れたことのない新たな生息地を占有する個体群も出てきた
しかし、生態環境そのものが大きな脳が必要となる理由を物語ってくれるわけではなく、それはただこれらのホミニンが進化する条件を与えてくれるのみ
大地溝帯の巨大な湖が頻繁に干上がった(しかもあっという間に)とき、これらの新たな生息地で生活しはじめた個体群にはきわめて強力な淘汰圧がかかっただろう
すみやかに乾燥化に適応できなければ絶滅するしかない ということは、2つの可能性がある
霊長類におなじみの捕食リスクと、ライバル(ホミニン)の共同体(「略奪者」ともいう)のリスク
初期ホモ属の場合には捕食リスクの方が高かったのではないか
より開けた生息地への移動では捕食者に出会う可能性も増えたはずだ
たとえば、ヒヒは安全な森林地帯の周囲に広がる捕食者の多い疎開林や草原にまで広く分布し、サルや類人猿では最も安定した大集団を形成する より重要なのは、これらの集団はさらに開けたサバンナの生息地では常に個体数が増えること なかでも極端なのが、エチオピアの耕地に住む草食性のゲラダヒヒ この種は小規模な多婚家族単位から成る複雑な離合集散社会を形成する
特定の場所に集まる家族単位数は、その生息地がさらされる捕食リスクに依存する
開けた大地の上で食べ物を探す時、群れの規模は最大になる
そこでは、捕食者から逃れようにも木は一本も生えていないからだ 現在では、ヒョウはエチオピアの高地では珍しくなったとはいえ、ハイエナはきわめてよく見られる(エチオピアの亜種は並外れて大型で狂暴)
しかし、この見解にはある問題がある
ヒトもチンパンジーも捕食者に襲われるリスクは同等だが、どちらの種についても、高度な社会(共同体)組織化が捕食と何らかの関連を有するという証拠はない いずれも離合集散社会を形成するが、こうした高度に組織化された集団の構成員は捕食者に対する抑止力になるほど物理的に近くにいない チンパンジーにおける対捕食者集団は3~5頭の食物探し集団で、狩猟採集するヒトの場合には、それは食物探しの集団(男性の狩猟集団で5人、女性の採集集団で10~15人)か、30~50人からなる一夜限りの野営集団(バンド)だ
野営集団の方が大きいのは現生人類が夜間にはより危険と隣り合わせにあり、数を頼む必要があったことを反映するのかもしれない サルや類人猿はかならず木か崖の上で寝るが、ヒトはそれほど木や崖に登るのがうまくなく、一般には地上で夜を過ごすしかない
地上は捕食者の危険に満ちていて、霊長類の貧弱な夜間視力を考えればなおさら
いずれにしても、どちらの種でも組織化が高度になると(チンパンジーで約50頭、ヒトで150人の集団)、地理的に分散しすぎて捕食者に対する抑止力にはならない
チンパンジーにおいて共同体の組織化がどのような機能を持っていたにせよ、事情は初期ホモ属でも同じだっただろう
初期ホモ属の共同体はチンパンジーよりほんのわずかに大きいだけと推測されている
エルガステルとエレクトスはどちらの数も概して75~80
チンパンジーの場合、生息地を防御して資源を占有するか、縄張り内の雌との交尾権を守るのが目的だという説がある
資源の占有という可能性は説明としては有りえ得ても、霊長類では稀
ただし霊長類の多くが縄張りを持ち、雄はかならず縄張りを守って雌との交尾権を占有するのは事実だ
雌との交尾権という可能性は霊長類一般における縄張りにかかわる行動と適合しそうだし、チンパンジーの雄は大挙して近隣の共同体を攻撃し、時にはその共同体の雄を皆殺しにすることもあるという強力な裏づけもある
チンパンジーの共同体は自己防衛同盟に似ていて、この同盟下では雄は共同戦線を張って自分たちの命を守るとともに、縄張り内の雌との交尾権を占有する
初期ホモ属はチンパンジーの行動をやや広範で大きな集団に拡張しただけだという議論は理にかなっているように思えるが、実際には雌を守るという説は彼らの場合あまり意味をなさない
なぜ協力して守るべき地域を唐突に広げて共同体を拡張し、各個体が大きな脳のコストを払うことになったのか
この問いに対する明確な答えはないように思える
さらに、交尾にかかわる縄張りを守るためにチンパンジーの雄は同盟関係を結ぶが、その微妙な上下関係が固定されていないのは明らかだ
チンパンジーやヒヒなど乱婚の配偶体制をもつ種では、最上位にいる雄は集団内に5頭を超える雄がいるようになった途端に、他の雄が自分の雌と交尾するのを妨げなくなる ライバルの雄が増えると雌を占有する彼の能力はひどく落ち、これは集団内の雌の数とは関わりがない
一群の雌を守るには、雄は発情期に入った個々の雌に力を注ぐしかない
ところが、一頭を超える雌が発情期にあると、二頭目からの雌は他の雄の思いのままにさせるしか手がない
これはチンパンジー、ヒヒとマカクザルのいずれにおいても見られるパターンなので、離合集散社会とはかかわりがなく、単に支配的な雄画素の存在を認めねばならないライバル数の問題 高位にいる雄が集団内により多くの雄がいる状況を容認して雌を共有するには、なにか切迫した理由がなければならず、それは集団外に由来するものでなければならない
それが捕食でないなら、急襲してくる仲間(同種のライバルーチンパンジーはすでにこの問題を経験済み)か、より広い領域に渡る食料源を共有する機会のどちらかだ
このどちらかが初期ホモ属のより大きな共同体、すなわちより大きな脳を説明するかは、今のところわかっていない
けれども、一つ確信できることがあるとすれば、それは初期ホモ属が多婚(複婚)であったこと 彼らの性的二型性のレベルは、たいていのアウストラロピテクス類よりわずかながら低いが現生人類より高く、相当な多婚または乱婚の傾向を示す このことが個々の雄が繁殖期にある雌をめぐって争った(チンパンジーやヒヒのように)、あるいは雌はより支配的な雄のハーレムに専有された(ゲラダヒヒやマントヒヒ、そしてたぶんゴリラも)のいずれを反映するかについては確たることは言えない アウストラロピテクスと同じように、それは彼らの食物探しの集団サイズとその分散度に依存するのではないだろうか
しかし、共同体の規模がチンパンジーとアウストラロピテクスよりいくらか大きいことを考えると、一番説得力のある結論はなんらかの多婚形態だ
ここまでの記述は比較的わかりやすかった
まずアウストラロピテクスへの移行、次に初期ホモ属への移行にともなう時間収支の変化は大幅ではなかった
これらについては食性の比較的些細な変化、移動様式による節約で、また少なくとも二番目の移行については、新たなつながりのメカニズム(いっせいに笑う)の導入でかなり容易に説明することができた
どれをとっても、それは大型類人猿がもつ既存の形質の単なる改良などではなかった とはいえ、これらの適応のおかげで、初期ホミニンのどちらの種も料理と火を持ち出すまでもなく「進化の道のり」をたどってきた
これが重要なのは、さらに脳が大きくなるためにまだ料理という要素を今後に取っておけるからだ
料理は後代に大きな役割を果たしたかもしれないのだが、それは旧人への三番目の移行にともなって脳はさらに大幅に増大し、進化の物語は複雑さをきわめるようになるからだ